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フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝) : ミニ英和和英辞書
フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)[どいつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [かみ]
 【名詞】 1. god 
神聖 : [しんせい]
  1. (adj-na,n) holiness 2. sacredness 3. dignity 
: [ひじり, せい]
  1. (pref) saint 2. st.
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
皇帝 : [こうてい]
 【名詞】 1. emperor 
: [みかど]
 【名詞】 1. (1) emperor (of Japan) 2. mikado 3. (2) (the gates of an) imperial residence 

フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝) : ウィキペディア日本語版
フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)[どいつ]

フェルディナント1世(ドイツ語:Ferdinand I, 1503年3月10日 - 1564年7月25日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1556年 - 1564年)、オーストリア大公ボヘミア王(在位:1526年 - 1564年)、ハンガリー王(在位:同)。
オーストリア系ハプスブルク家の祖であり、オーストリア、ドイツ、ボヘミア、ハンガリーを統治した。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップ美公カスティーリャ女王フアナの間の次男で、皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の弟。スペインで生まれ、スペインで育った。スペイン名はフェルナンド(Fernando)。
== 生涯 ==
1503年3月10日、カスティーリャアルカラ・デ・エナーレスで生まれる。スペインで育ち、スペイン語母語であったため、スペインの人々はフェルナンドのスペイン王位継承を望んでいたが、1516年に兄カルロスとトレードされる様な形でオーストリアへ趨き、生涯スペインに戻ることはなかった。また1515年に祖父マクシミリアン1世により、ボヘミアハンガリーの王ウラースロー2世の娘アンナとの結婚とフェルディナントの妹マリアとアンナの弟ラヨシュ2世との結婚(ウィーン二重結婚)が定められるが、この時点ではアンナ王女の夫はカールかフェルディナントか決定されていなかった。最終的に結婚相手を将来の皇帝であるカールではなくフェルディナントに決めると、ハンガリー側からは猛反発を受けた。しかし結果としてフェルディナントとアンナの2人にとっては幸福な結婚となった。
1521年、マクシミリアン1世の遺領分割で、兄カール5世の意向によりオーストリアを相続し、アンナと結婚した。1526年モハーチの戦いで義弟のラヨシュ2世が戦死したため、ボヘミア王位とハンガリー王位が空位となると、フェルディナントはこの2ヶ国の王位を継承し、ハプスブルク君主国の成立の礎を築いた。しかし、オスマン帝国の後ろ盾でトランシルヴァニア領主サポヤイ・ヤーノシュがハンガリー王に即位(対立王)、死後はその子ヤーノシュ・ジグモンドが即位、ハンガリー全土を実効支配することは出来なかった。また、1529年にはいわゆる第一次ウィーン包囲も受けている。この時はルター派諸侯の力を借りている。
カール5世の皇帝在位中の1531年にはアーヘンドイツ王の戴冠を受けた。1549年にフェルディナントとその子孫の帝位世襲が取り決められ、ドイツで問題になっていたカトリックプロテスタントの宥和に尽力、1552年パッサウ条約1555年アウクスブルクの和議を結んだ。1556年にカール5世の退位を受けてフェルディナントが帝位を継承した。
ボヘミア・ハンガリーでは王権の強化を図り、ハンガリーでは失敗したが、ボヘミアではある程度成功し、1547年シュマルカルデン戦争に乗じて起こった反乱を鎮圧、ハプスブルク家のボヘミア王位の世襲を認めさせ、1556年のイエズス会招聘や1561年プラハ大司教の復活など対抗宗教改革の導入にも尽力した。
1564年、61歳で死去。遺領は3分割され、長男のマクシミリアン2世が神聖ローマ皇帝位、ボヘミア、ハンガリーを、次男のフェルディナント2世チロルを、3男のカール2世シュタイアーマルクケルンテン、クラインをそれぞれ継承した。
兄との生前の取り決めでは、フェルディナント1世の次は甥で兄の息子フェリペ(スペイン王フェリペ2世)が帝位を継承し、以後カール5世とフェルディナント1世の家系が交互に継承することになっていたが、これは無視されて次の皇帝にはフェルディナント1世の息子マクシミリアン2世が即位した。スペイン・ハプスブルク家もこれを容認したため、以後もフェルディナント1世の家系、オーストリア・ハプスブルク家が帝位を世襲していくことになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)」の詳細全文を読む




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